性や人種、容姿や能力、この世には様々な差別が存在しています。
そこには偏見がつきまとい、不当に扱われる人が苦しんでいます。
そのように苦しむ人がいなくなるように、差別はなくなるべきでしょう。
では「人を差別するような言葉を使わなければいい」のか?
これまでも「差別用語」「放送禁止用語」といった言葉狩りがありましたが、それで果たして差別はなくなったのでしょうか?
そんな単純な話しではないことは、これまでの歴史の中で明らかです。
では、差別をされている人をそうでない人と同様に扱えばいい。
果たしてそうでしょうか?
これまで差別や偏見を声高に叫ぶ人達によって、時に差別や偏見を受ける人達の首をしめることになる、そんな歴史もありました。
そのためにも、そもそも差別とは何なのか?
それを知らないままでは解決もまたありえません。
例えばジェンダー。
差別する側される側、その両者とも無意識にでも差別的な考え方がある、そんなことが往々にしてあり得ます。
それくらいに一切の差別的意識を排した考え方・表現は難しい。
差別と区別。
この両者の違いを明確に分けること、それ自体が難しいと感じます。
区別すること、恣意的に分類することは人間が世界を理解する上で必須の能力であり、意識的に区別することなしに世界を把握することは困難であると言ってもいいかもしれません。
区別することは人間にとって本質的な営みである、そういうものという前提にまず立つこと、そこをスタートにしない限り、差別という問題を考えることは難しいでしょう。